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とりあえず1周はクリアしたところ、更に言いたいことが増えたのでまた好き放題言い散らかします。
「このゲームは2周前提で、1周目だけでは謎もたくさん残りクリアした感じがしない」という情報を予め持っていたので覚悟はしていたんですが、ほんとに投げっぱなしでした。しかし、謎が残っていることは、むしろここでは大きな問題ではなく、【最終章】の内容がひどい。
ストーリーは前回書いた通り、場当たりな感じがするのは相変わらずですが、それでも7章までで少しずつ盛り上がっていっていました。自分側の軍勢、朱雀が7章にしてようやく優位に立ち、世界統一を達成――と思った所で最終章に入るわけですが。
展開が唐突過ぎ、とは結構言われているようで、その通りです。しかし、普通、展開が急であることの問題は、「話について行けないこと」だと思いますが、この場合の問題は、「主人公たち、ひいてはプレイヤーのこれまでの努力をぶち壊す」展開であることだと感じました。絶望感を出したいのかもしれませんが、勝利の余韻に浸る間もなくいろんなものをボロクソに奪い取るのだから、その時点で7章までの「勝利」のカタルシスは得られないわけです。ならばその最終章をクリアしたときにそれ以上のカタルシスを用意するのがゲームとして必要なはずです。それが、「無駄に長く面倒なラストダンジョン」「ラスボス戦がイベント戦闘なので、面倒なだけで実質ラスボスなし(大ボスを打ち倒すカタルシスさえない)」「最も感情移入してきたであろう主人公的にはバッドエンドっぽい」「むしろ憎まれ役っぽかったキャラだけちゃっかり救いを得ている」と……クリアしてもすっきりする要素が何もない。これゲームだったはずだろ。苦行か。
ゲームはプレイヤーの能動的な遊びです。その基本構造は「ニンジンをぶらさげてウマを走らせる」と「適度なストレスをかけてからそれをすっきりさせる」です。それを守れていないというのは、まさかゲームの基本がわかっていなくて、N村氏が「ぼくのかんがえたそうだいなふぁんたじー」を見せびらかしたいだけだとは思いたくないので、2周目へのモチベーションを上げるためなのかもしれません。2周して裏の歴史を見れば納得ができるかもしれない、と思わせて。しかし、逆に1周してがっかりしてしまったら2周しないプレイヤーもいるんじゃないでしょうか…。「1周目は前半戦、2周目が後半戦」と言われているのを見たから私はまだ頑張れますが、知らなかったら投げてしまう人もいそうです。
ハッピーエンドに名作無し、と主張する人も時折います。しかしゲームのカタルシスのためにはハッピーエンドはある程度必要です、それも主人公に感情移入するRPGでは。FFなんて、大体は帝国やら何やらに追われるストレスを道中に設定してあるんだから、最後くらいはラスボスを倒して平和になって達成感に満ちたハッピーエンドになることがほとんどです。しかし、ハッピーエンドに持って行くために強引な手法をとると「ご都合主義」になります。そこがハッピーエンド=駄作と思わせてしまう罠なのかもしれません(ちゃんとしたバッドエンド主義者の考えはそこまで浅くないでしょうが)。
FF零式は、途中が強引であったものの(戦力的に、朱雀のルシ…というか召喚獣1つで2大国を相手に攻勢をひっくり返せるというのは戦記物としてどうなんだろう、力ずく過ぎやしないか)7章に至るまでで、プレイヤー的には「もうハッピーエンドしてもいいよね…」という気分になってます。だから、これをクリアすれば終われるという期待を持ってやっていました。しかし、最後があれでは何か得た気持ちにはなれません。彼らとしてはある意味1つの答えに辿り着いているんですが、あれを幸せと呼ぶには……。せめてもう少し時間を置かないと無理でしょう。
ハッピーエンドまでの道のりはある程度ちゃんと敷けていたから、そのままハッピーエンドならご都合にはならなかったでしょうに、わざわざそれをぶち壊すというのはもったいないというか何と言うか。
それでいて、たかだかルシ2名の力を借りて、それより上位存在であろうラスボスに勝ててしまうのもちょっとご都合っぽい気がします。主人公たちの特殊性ゆえなのか、12人の数で押したせいなのかはわかりませんが、「ご都合を回避できそうになってきたのにハッピーエンドそのものを回避してしまい、更にラスボス戦はわざわざご都合な感じ」と、もうどこへ向かっているのやら。マキナとレムが助かるのもご都合っぽい上にあまり嬉しくないのですが(少なくとも1周した時点で)、結晶化したルシが助かるのはFF13と同じ…なんですかね。
このゲームのキャッチコピーに「人は生まれる時代を選ぶことはできないが、どう生きるかを選ぶことはできる」という事があります。最終章も、主人公の選択が大きく取り上げられます。
しかし、これは選択肢が狭すぎると思いました。選ぶ、ということを重要テーマにするなら、無数の可能性のなかから自分で選択肢を見つけ出し、選んだ先の確かな答えが見えない不安を持ちながらも、何かを捨てて何かを選び取る。そういうものだと思います。シンクは「死に方を選ぶことは生き方を選ぶこと」と言いましたが、ほんとに「どう死ぬか」の選択でしかない上に2択しかありません。状況的には、半強制です。これを選んだと言えるのでしょうか。これまで命令でのみ動いてきた主人公たちなのだから、もっと広い選択肢から選ばせなければ、テーマを消化したとは言い難いです。
EDの最後のムービーは「感動した」「泣いた」と言うコメントを見かけますが、確かに泣きたくはなりましたが、感動かというと少し疑問が残りました。むしろ、救いのなさに対する悲しさ、理不尽さに対する怒り、そんな気持ちでした。それをムービーという手法で強引に「なんかよくわからんけど感動」に持って行こうとしている感がありました。深い悲しみと感動は近い物だと思うのですが(『フランダースの犬』とか『火垂るの墓』とか)どうも感動というには釈然としませんでした。やはり達成感がなかったからでしょうか。
結局何が表現したかったのかな、と疑問があります。「戦記物やりたい」という動機があったのなら、戦記物としての魅力である戦略性が物語として優れていたわけではないでしょう。「命の重み」を表現するには人がぽろぽろ死にますし。ただ、「戦争の悲惨さ」を伝えたいのかとは感じられました。アルテマ弾の表現が凄く核兵器っぽいし、珍しく「血がいっぱいでるFF」なんですよね。まさかのCERO Cですし。ただ人がいっぱい死ぬだけでなく、名前のついたサブキャラが作戦中に死に得るので、気づいたらいないということもあり。
もともとPVからぷんぷん漂う厨二臭から、N村厨二病作品だとはわかっていたのですが、実際かなり厨二的で、造語だらけや台詞・展開のヒネリのなさもなんですが、「壮大な作品を作りたい」という気持ちに表現力がついてきていない感じは厨二と言えるでしょう。
いくつかのコミュニティを見るに、客層はほんとに中高生が多いんじゃないでしょうか。…CERO Cですけど。ふと見たニコニコ大百科の記事、内容が薄いというか寒いんですよね。もう少し年齢層の高いクラスタであればもう少しまともな記事を書くでしょうが、そうならないのは、そもそもプレミアム層が少ないのかもしれません。また、発売してもWikipediaがまともに更新されていません。FFくらいのタイトルになれば、普通は発売後にきれいに記事を整備する人が現れるものです。そうならないのは、厨二病リアル世代は楽しめる人も多いけれど、やはり上の年代のプレイヤーは楽しめる人が少ない、あるいは事前情報で見限っている可能性があります。私もノリと勢いで買いましたが、もともと買うつもりはありませんでしたし。
それと厨二病の症例の一つに「ゲームを作りたくなる」というのがあり、それも表れている気がします。点としていくつか表現したいものがあっても、それを線で結ぶことができなかったり、リソースに不釣り合いなくらい有名なものをを使いたくなったり。有名声優さんを使うにしても、過去作に出演経験がある人ばかりだとあまりにラインナップが狭い気がしますし、主題歌BUMPなども、もちろん悪いというわけではないですが、全体としてチョイスが権威主義的すぎるのに厨二っぽさを感じます。
ストーリーとして良かったと思うのは、「死んだ人の記憶を失う」という世界観は面白いですね。人が死んだかの判断に使われることも多かったですが。忘れられたくないから死にたくない、というのはなかなか重いです。多くの作品では、「死んだ人間も忘れられなければ生きている」という主張をしますが、それが通用しないというのは個性的です。
主人公のキャラクターについては、ヒネリがなく掘り下げも少ないのですが、それは必ずしも悪いだけには感じません。王道は良いものだから王道になり得るわけで、新鮮さはなくても安定感やわかりやすさはあります。掘り下げや絡みが少ない部分は、妄想屋の自分としては楽しめる部分でもありますし。テンプレ過ぎるな、とは思いますが、結構好きです。
マキナとレムは感情移入するタイプの主人公じゃない、ということでいいんでしょうか。別枠ですね。どちらかというとイラッとすることの方が多く、「なんでこいつらの茶番を眺めなきゃならないんだろう」というシーンが多いです。
ほぼ悪口になっているのが恐ろしいことです。こんなこと書き連ねるのも大概バカのすることですね。
悪い部分が悪目立ちするのでその点に多く触れていますが、もちろんゲームとして十分に遊べる要素もあるからプレイしているわけで、2周目ややり込み要素も適度にやっていくつもりです。悪い部分が悪目立ちする、というのは、今作が実験的なものであることも関係しているのでしょう。FF「零式」というのは、新たな始まりの意味があるようで、新しいものを作るためには失敗がつきものです。それは悪い事ではありません。……むしろ悪い点は、これまでのFFから引き摺っている要素が多いですし。まずはそれを脱ぎ捨てることが、新しい事を始める前に必要なのでは。
慣れというのは恐ろしいもので、私らは既に懐古世代なので、過去の作品と現在の作品の間で公正な判断を下せない可能性が常につきまとっています。プレイの面倒な部分だって、ゲームプレイの経験が少なければ苦になりにくいものです。
加えて、作品をこき下ろすのに別の作品と比較するなどマトモな事ではないと常々思っているものの、こうして考えると自分の好きなFFⅤやⅥ、タクティクスシリーズなどの素晴らしい部分を再認識するのです。依怙贔屓だけでは無く、そこには確かに面白さがありました。
あと、当然ですが、作品を楽しんでいる人を否定するつもりは毛頭ありません。他人の考えを否定しようなんて気もありませんし、一介の感想として述べているだけです。私が不満に感じる部分が逆に好きな人がいるからといって、それがどうという訳でもありませんしね。と、一応言い訳をつけておきます。
ストーリーは前回書いた通り、場当たりな感じがするのは相変わらずですが、それでも7章までで少しずつ盛り上がっていっていました。自分側の軍勢、朱雀が7章にしてようやく優位に立ち、世界統一を達成――と思った所で最終章に入るわけですが。
展開が唐突過ぎ、とは結構言われているようで、その通りです。しかし、普通、展開が急であることの問題は、「話について行けないこと」だと思いますが、この場合の問題は、「主人公たち、ひいてはプレイヤーのこれまでの努力をぶち壊す」展開であることだと感じました。絶望感を出したいのかもしれませんが、勝利の余韻に浸る間もなくいろんなものをボロクソに奪い取るのだから、その時点で7章までの「勝利」のカタルシスは得られないわけです。ならばその最終章をクリアしたときにそれ以上のカタルシスを用意するのがゲームとして必要なはずです。それが、「無駄に長く面倒なラストダンジョン」「ラスボス戦がイベント戦闘なので、面倒なだけで実質ラスボスなし(大ボスを打ち倒すカタルシスさえない)」「最も感情移入してきたであろう主人公的にはバッドエンドっぽい」「むしろ憎まれ役っぽかったキャラだけちゃっかり救いを得ている」と……クリアしてもすっきりする要素が何もない。これゲームだったはずだろ。苦行か。
ゲームはプレイヤーの能動的な遊びです。その基本構造は「ニンジンをぶらさげてウマを走らせる」と「適度なストレスをかけてからそれをすっきりさせる」です。それを守れていないというのは、まさかゲームの基本がわかっていなくて、N村氏が「ぼくのかんがえたそうだいなふぁんたじー」を見せびらかしたいだけだとは思いたくないので、2周目へのモチベーションを上げるためなのかもしれません。2周して裏の歴史を見れば納得ができるかもしれない、と思わせて。しかし、逆に1周してがっかりしてしまったら2周しないプレイヤーもいるんじゃないでしょうか…。「1周目は前半戦、2周目が後半戦」と言われているのを見たから私はまだ頑張れますが、知らなかったら投げてしまう人もいそうです。
ハッピーエンドに名作無し、と主張する人も時折います。しかしゲームのカタルシスのためにはハッピーエンドはある程度必要です、それも主人公に感情移入するRPGでは。FFなんて、大体は帝国やら何やらに追われるストレスを道中に設定してあるんだから、最後くらいはラスボスを倒して平和になって達成感に満ちたハッピーエンドになることがほとんどです。しかし、ハッピーエンドに持って行くために強引な手法をとると「ご都合主義」になります。そこがハッピーエンド=駄作と思わせてしまう罠なのかもしれません(ちゃんとしたバッドエンド主義者の考えはそこまで浅くないでしょうが)。
FF零式は、途中が強引であったものの(戦力的に、朱雀のルシ…というか召喚獣1つで2大国を相手に攻勢をひっくり返せるというのは戦記物としてどうなんだろう、力ずく過ぎやしないか)7章に至るまでで、プレイヤー的には「もうハッピーエンドしてもいいよね…」という気分になってます。だから、これをクリアすれば終われるという期待を持ってやっていました。しかし、最後があれでは何か得た気持ちにはなれません。彼らとしてはある意味1つの答えに辿り着いているんですが、あれを幸せと呼ぶには……。せめてもう少し時間を置かないと無理でしょう。
ハッピーエンドまでの道のりはある程度ちゃんと敷けていたから、そのままハッピーエンドならご都合にはならなかったでしょうに、わざわざそれをぶち壊すというのはもったいないというか何と言うか。
それでいて、たかだかルシ2名の力を借りて、それより上位存在であろうラスボスに勝ててしまうのもちょっとご都合っぽい気がします。主人公たちの特殊性ゆえなのか、12人の数で押したせいなのかはわかりませんが、「ご都合を回避できそうになってきたのにハッピーエンドそのものを回避してしまい、更にラスボス戦はわざわざご都合な感じ」と、もうどこへ向かっているのやら。マキナとレムが助かるのもご都合っぽい上にあまり嬉しくないのですが(少なくとも1周した時点で)、結晶化したルシが助かるのはFF13と同じ…なんですかね。
このゲームのキャッチコピーに「人は生まれる時代を選ぶことはできないが、どう生きるかを選ぶことはできる」という事があります。最終章も、主人公の選択が大きく取り上げられます。
しかし、これは選択肢が狭すぎると思いました。選ぶ、ということを重要テーマにするなら、無数の可能性のなかから自分で選択肢を見つけ出し、選んだ先の確かな答えが見えない不安を持ちながらも、何かを捨てて何かを選び取る。そういうものだと思います。シンクは「死に方を選ぶことは生き方を選ぶこと」と言いましたが、ほんとに「どう死ぬか」の選択でしかない上に2択しかありません。状況的には、半強制です。これを選んだと言えるのでしょうか。これまで命令でのみ動いてきた主人公たちなのだから、もっと広い選択肢から選ばせなければ、テーマを消化したとは言い難いです。
EDの最後のムービーは「感動した」「泣いた」と言うコメントを見かけますが、確かに泣きたくはなりましたが、感動かというと少し疑問が残りました。むしろ、救いのなさに対する悲しさ、理不尽さに対する怒り、そんな気持ちでした。それをムービーという手法で強引に「なんかよくわからんけど感動」に持って行こうとしている感がありました。深い悲しみと感動は近い物だと思うのですが(『フランダースの犬』とか『火垂るの墓』とか)どうも感動というには釈然としませんでした。やはり達成感がなかったからでしょうか。
結局何が表現したかったのかな、と疑問があります。「戦記物やりたい」という動機があったのなら、戦記物としての魅力である戦略性が物語として優れていたわけではないでしょう。「命の重み」を表現するには人がぽろぽろ死にますし。ただ、「戦争の悲惨さ」を伝えたいのかとは感じられました。アルテマ弾の表現が凄く核兵器っぽいし、珍しく「血がいっぱいでるFF」なんですよね。まさかのCERO Cですし。ただ人がいっぱい死ぬだけでなく、名前のついたサブキャラが作戦中に死に得るので、気づいたらいないということもあり。
もともとPVからぷんぷん漂う厨二臭から、N村厨二病作品だとはわかっていたのですが、実際かなり厨二的で、造語だらけや台詞・展開のヒネリのなさもなんですが、「壮大な作品を作りたい」という気持ちに表現力がついてきていない感じは厨二と言えるでしょう。
いくつかのコミュニティを見るに、客層はほんとに中高生が多いんじゃないでしょうか。…CERO Cですけど。ふと見たニコニコ大百科の記事、内容が薄いというか寒いんですよね。もう少し年齢層の高いクラスタであればもう少しまともな記事を書くでしょうが、そうならないのは、そもそもプレミアム層が少ないのかもしれません。また、発売してもWikipediaがまともに更新されていません。FFくらいのタイトルになれば、普通は発売後にきれいに記事を整備する人が現れるものです。そうならないのは、厨二病リアル世代は楽しめる人も多いけれど、やはり上の年代のプレイヤーは楽しめる人が少ない、あるいは事前情報で見限っている可能性があります。私もノリと勢いで買いましたが、もともと買うつもりはありませんでしたし。
それと厨二病の症例の一つに「ゲームを作りたくなる」というのがあり、それも表れている気がします。点としていくつか表現したいものがあっても、それを線で結ぶことができなかったり、リソースに不釣り合いなくらい有名なものをを使いたくなったり。有名声優さんを使うにしても、過去作に出演経験がある人ばかりだとあまりにラインナップが狭い気がしますし、主題歌BUMPなども、もちろん悪いというわけではないですが、全体としてチョイスが権威主義的すぎるのに厨二っぽさを感じます。
ストーリーとして良かったと思うのは、「死んだ人の記憶を失う」という世界観は面白いですね。人が死んだかの判断に使われることも多かったですが。忘れられたくないから死にたくない、というのはなかなか重いです。多くの作品では、「死んだ人間も忘れられなければ生きている」という主張をしますが、それが通用しないというのは個性的です。
主人公のキャラクターについては、ヒネリがなく掘り下げも少ないのですが、それは必ずしも悪いだけには感じません。王道は良いものだから王道になり得るわけで、新鮮さはなくても安定感やわかりやすさはあります。掘り下げや絡みが少ない部分は、妄想屋の自分としては楽しめる部分でもありますし。テンプレ過ぎるな、とは思いますが、結構好きです。
マキナとレムは感情移入するタイプの主人公じゃない、ということでいいんでしょうか。別枠ですね。どちらかというとイラッとすることの方が多く、「なんでこいつらの茶番を眺めなきゃならないんだろう」というシーンが多いです。
ほぼ悪口になっているのが恐ろしいことです。こんなこと書き連ねるのも大概バカのすることですね。
悪い部分が悪目立ちするのでその点に多く触れていますが、もちろんゲームとして十分に遊べる要素もあるからプレイしているわけで、2周目ややり込み要素も適度にやっていくつもりです。悪い部分が悪目立ちする、というのは、今作が実験的なものであることも関係しているのでしょう。FF「零式」というのは、新たな始まりの意味があるようで、新しいものを作るためには失敗がつきものです。それは悪い事ではありません。……むしろ悪い点は、これまでのFFから引き摺っている要素が多いですし。まずはそれを脱ぎ捨てることが、新しい事を始める前に必要なのでは。
慣れというのは恐ろしいもので、私らは既に懐古世代なので、過去の作品と現在の作品の間で公正な判断を下せない可能性が常につきまとっています。プレイの面倒な部分だって、ゲームプレイの経験が少なければ苦になりにくいものです。
加えて、作品をこき下ろすのに別の作品と比較するなどマトモな事ではないと常々思っているものの、こうして考えると自分の好きなFFⅤやⅥ、タクティクスシリーズなどの素晴らしい部分を再認識するのです。依怙贔屓だけでは無く、そこには確かに面白さがありました。
あと、当然ですが、作品を楽しんでいる人を否定するつもりは毛頭ありません。他人の考えを否定しようなんて気もありませんし、一介の感想として述べているだけです。私が不満に感じる部分が逆に好きな人がいるからといって、それがどうという訳でもありませんしね。と、一応言い訳をつけておきます。
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